ある日本人の英語

H. G. Wellsの小説「Kipps: The Story of a Simple Soul」の翻訳出版に向けた作業ブログ a one-man effort to translate a novel by H. G. Wells, “Kipps: The Story of a Simple Soul” (1905) into Japanese and publish the results

ジョゼフ・コンラッド「チャンス」(邦題仮)第一部第二章メモ

ジョゼフ・コンラッドの小説「Chance」第一部第二章から、気になることをここに書きつけていく。ページ番号は手元の[ペンギンオックスフォード本]のもの。

Chance Part 1 Chapter 2読解メモ

Page 30, launched

“The finest sea-boat ever launched,” declared Mr. Powell sturdily.  “Without exception.”


ここではさすがにlaunchは「進水」で異論はないだろう。

「航洋船ではかつて進水したもののうち、あれが一番良い」と力強くパウエルさんは宣言する。「例外なく」[丸香]

 既存邦訳の「闇の奥」では誤解されてきた(と私は思う)。

tak-p-masen.hatenablog.com

Page 31, you must know, pedestrian

Fyne, you must know, was an enthusiastic pedestrian.


[禿木]も訳語として採用しているが「徒歩旅行家」という用語はある。

レジストロに客死した世界徒歩旅行家 —岡田芳太郎 下

ここのyou must knowは「知っているはず」ではなく「知らなくてはいけない」の意味。[フランス語訳]Il faut que vous sachiez que、[禿木]「こりゃ是非承知しておいて貰いたいんだが」。

是非これは覚えておいてほしいんだが、ファインは熱心な徒歩旅行家だった。[丸香]

 

Page 34, on the turn, before she swung

on the turnは変わっているところ、ターニングポイントにある、という意味[COD]。

The tide was on the turn, he announced coming away from the window abruptly.  He wanted to be on board his cutter before she swung and of course he would sleep on board.

このswungというのは、船が回って向きを変えることを言う。もちろん、「闇の奥」の書き出しのときのネリー号の動きに似て、水平に旋回するのである。その箇所において既存邦訳ではなおざりにされてきたことばである。

 tak-p-masen.hatenablog.comいや、そうでないかも知れない。眠りたいと言っている。船が振れる(主に水平に振動すると思うけど)のがいやなのか。潮の変わり目では船の振動が静かで落ち着いて眠れるのだろう。実はもっと前に船の運動を気にしている叙述がある。第一章28ページ。

"I know his sort," said Powell, going to the window to look at his cutter still riding to the flood.

同じ自分の船を見ていたのである。前からずっと休むタイミングをはかっていたのだろうか。

「あの種の人間にはなじみがある」とパウエルは言いながら窓辺に行き、自分のカッターがまだ寄せる満ち潮に遊ぶ浮いているのを見た。[丸香]

 そうだ。そうに違いない。

「闇の奥」の書き出しとは違って、振れる先の方向の記述もなく「そして静止した」and was at restもない。だから表現だけからは往復、反復運動である可能性が比較的高い。[オックスフォード本]の巻末の海事用語集にはswingが見出し語の項があり(つまり非専門家の読者にはやはり意味不明のことばなのであり)「錨を下ろした状態で潮によってside to sideに動くこと」旨ある。今回は錨を下ろしたのはずっと前のはずなので、状況も(「闇の奥」と異なり)この定義が該当しそうだ。ならばbefore she started swinging side to sideと読むべきか。

だとしても、本文に書いてあること以上のことを敢えて言う必要があるだろうか。

急に、潮の変わり目であることを告げながら、窓辺から離れてやってくる。まだ自分のカッターが振れる(スウィングの)まえに乗船したいのであって、もちろん睡眠を取るのである。[丸香]

振り子が振れるのと時計の針が振れるのとでは運動の詳細は異なるだろうが、振れるということばが通用する。船が振れる、は少し妙かもしれないが状況と専門知識(domain knowledge)がなければ意味が特定されない点において英語でthe boat swingsと言ったときと大して変わらないのではあるまいか?

[オックスフォード本]の編集者の親切をふいにするようでもあるが、船の向きが変わって出発する前に船乗りが睡眠を取っておこうと思った、という理解でも十分に論理的であろう。

[禿木]は船の向きが変わる、という立場である。急ぐ理由がちょっと違うようだ。引用する。

突然窓のところからやって来て、潮が変りかけて来たと告げるのだった。風潮(しお)のために船が回って、その向きが変わらないうちに、早く乗り込みたい、で勿論船へ寝るのだ[禿木]

[イタリア語訳]も「向きを変える前に」prima che virasseとなっている。[フランス語訳]は(私には)意味不明Il voulait être à bord de son cotre avant qu'il évitât"

2023/5/27追記:éviterというのは海洋用語で船の向きを変更すること、回頭をいうのである。Nouveau Petit Robert Dictionnaire de la Langue Francaise (1993)によれば
changer de direction, cap pour cap.

Page 35, at her feet

英語辞書によれば、表現at her feetは彼女の弟子として、もしくは仕えて、もしくは懇願して、というような意味になりうる[COD]。

They sat at her feet. They were like disciples.

この場合(似たようなことはしょっちゅうだが)、あいまいで、文字通り「足元に」と言っているようでもある。おそらくわざと(by design)、そういう書き方をするのであろう。 

皆、師事するかのように、夫人のひざ元に座した。[丸香]

Page 36, turn

一時的、精神的な衝撃を意味することがある[COD]。

She had given me a turn.

 

女の子にはぎょっとした。

Page 36, arched eybrows, unhappy

arched eybrowsは「弓なりの眉」だろうか?archedというのはアーチ形であることを言うので、円弧のような曲線であることを言うのだろう。いやparabolic archというのもあるらしいから円弧でないかも。ラテン語の弓はarcusらしいが、弓がarcusの原義であるのかは知らない。材料をしならせてできる形なのか否か。

She looked over her shoulder and her arched eyebrows frowned above her blanched face. It was almost a scowl. Then the expression changed. She looked unhappy. “Come here!” she cried once more in an angry and distressed tone.

arched eybrowsと言われる眉の具体例としてイエスタデイを歌う昔のポール・マッカートニーというのが見つかった。

In Defense of Paul McCartney: Milquetoast Balladeer or Songwriting Stud? - Music - The Austin Chronicle

もっとも、「チャンス」では、あとで人相学的にarched eybrowsがa sign of courageと言っているから素人考えではあるが、違う種類の眉の気がする。案外、原文arched eybrowsよりも「弓なりの眉」のほうが著者の意図に近いのではないだろうか。そう思ってGoogleしてると「太陽がいっぱい」(英語圏ではPurple Noon)のアラン・ドロンの映像についてthose crystal-blue eyes and delicately arched eyebrowsと書いている記事もあった。

Queer & Now & Then: 1960

リンクは示さないが、ショーン・コネリーの眉もarched eybrowsと言えるらしい。ミスター・ビーンローワン・アトキンソン)のも。アル・パチーノのも、たぶん。多数(多様?)あり。手塚治虫スターシステムのほとんどのキャラクターも該当するであろう。「チャンス」の場合、女性の眉を研究すべきだが、たぶん似たようなものだ。の字の眉でも良いと思われる。

翻訳しにくいのはむしろunhappyだ。悲しい、機嫌が悪いとかいろいろ考えられるようで、ここでは条件がきつい。前をみると、しかめっつらから表情が変わったのだから「機嫌」は使えない。後ろをみると、distressedの意味を含ませるのが妥当と思われる。今のところ良い訳語は思いつかない。

女子は肩越しにあたりを見て、血の気の引いた顔の上に弓なりの眉をひそめた。もう少しで恐いほどのしかめづらだ。そして表情が変わった。つらそうだ。『こっちにおいで!』ともう一度、怒りと苦しみの調子で叫んだ。[丸香]

Page 37, for all I cared

文字通りに読めば、自分が構うすべてを考えても、とでもなりそうだが、学習英語辞典にもしっかり載っている慣用句で[OALD]、大雑把に言えば、自分は構わないから、と言っている。

in a tone which almost suggested that she was welcome to break her neck for all I cared.

 
about which I couldn't have cared lessと言うのと実質変わらない。

当方は構わないのでどうぞ首でも折られれば良かろう程度に聞こえかねない調子で[丸香]

 

Page 38, I had kept on my rooms

学習英語辞典にもしっかり載っているが[OALD]keep onには(部屋や家を)借り続けるとか所有し続ける、という意味もある。

But as I had kept on my rooms in the farmhouse I concluded to go down again for a few days.

 
だから

それでも農家に自分の部屋がまだあるので、迷ったあげく出かけて二三日ほど滞在することに決めた。[丸香]

Page 43, beggar

学習英語辞典にもしっかり載っているが[OALD]、beggarは必ずしも「乞食」ではない。devilが必ずしも「悪魔」を意味しないのに似ている。自分には女性的なところがある(?)と告白する前にマーロウが「私」に向かって言う。

You see, you are such a chivalrous masculine beggar.

 コンラッドもチャンスで成功するまで経済的には苦しかったかも知れないが、口語のperson, fellowの意味を採用する。

ほら、それだけ君は雄々しい騎士道野郎なのだ。[丸香]

Page 49, fastened upon

既存翻訳では、それはそれで正当なのだが、「まつわる」のような怪しげな雰囲気の訳語を採用しているところ。

And then remembering Mrs. Fyne’s snappy “Practically” my thoughts fastened upon that lady as a more tangible object of speculation.

しかし辞書[COD]にあるlay hold of, single out for targetを額面どおり読んで、「とらえる」「攻撃対象に選ぶ」というさっぱりした意味で訳してよいのではあるまいか

次にファイン夫人のばちんと言った『事実上』を思いだしながら、僕の関心は推測の対象としてもっと具体的に、あの婦人に的を絞った。[丸香]

 

 

Page 50, their secret device

「秘密装置」としようかと思ったのだが、やめた。

“Sensation at any cost,” is their secret device.

既存翻訳とは異なるが[オックスフォード本]の注の路線でいく。すなわち、英語wiktionaryのdeviceの項目で言うと(heraldry)分類の意味

en.wiktionary.org

つまり、「motto、emblem、あるいはそれ以外の他の者と区別するためのしるし」という解釈を採用する。

『代償をいとわない感覚追求』が女性の秘密の合言葉だ。[丸香]

実はheraldryから曼荼羅を連想し、「マントラ」「真言」とかいう訳語も考えたが妄想が過ぎると思った。mottoとマントラの語源はつながらないようだ。

Page 51, as heartily as my sinking heart would permit

これはコンラッドでは特に頻出する種類の問題だ。

“Come inside,” I cried as heartily as my sinking heart would permit.

「沈むheartの許容する限りのheartily」はいかほどのものであろうか。たぶん全然heartilyでない、と察知することを原作者は読者に期待しているのだ。心得る読者は、少なくともコンラッドの愛読者はたぶん、きっとにやにや笑ったり、さすがコンラッドと、幸せになるのだと想像する。だとしても、いやだからこそ、読者を決まった解釈に誘導することは原作の味わいを半減することになるから、訳者の慎むべき行為である。読み下すがごとく訳すのが本道なのである―という立場をとることにする。

『中に這入って』と、沈む心の許す限り精いっぱい心を込めて僕は叫んだ。[丸香]

 「闇の奥」でも、「(長身の)クルツ(短い)の名まえくらいに本当」とか、「現地の太鼓の音に我々の教会の鐘の音と同じくらい意味があるはずだ」とか、反語なのか冗談なのか知らないが、翻訳者を悩ましたり、不慣れな読者を疲れさせたりしてくれる。たぶん、同作品の難しいという印象やすばらしいという評価にいくらかはこの手の表現の長所短所が寄与しているに違いない。原書を読むか、いろいろ敷衍した邦訳を読むかで当然また違うはずである。

 

 

 

 

 

文献

それぞれの項目内に明記したものやリンクしたもの以外、主な情報源は以下のとおり。

原書

オックスフォード本

Chance (Oxford World's Classics) 2008, ISBN: 978-0199549771

*ペンギンクラシックスかと思っていたら違いました。

邦訳

禿木

平田禿木訳、国民文庫刊行会、世界名作大観「チャンス」

丸香

青野丸香 訳(準備中)ドラフト

辞典

COD

H W Fowler and J B Sykes, The Concise Oxford Dictionary of Current English (6th Edition), Oxford University Press 1976, ISBN: 0-19-861121-8

 

OALD

A.S. Hornby, Oxford Advanced Learner's Dictionary of Current English 4th edition 1989

 

イタリア語訳

Il caso

Il caso: Un racconto in due parti, traduzione di Richard Ambrosini, Adelphi  2015, ISBN: 978-8845930003

フランス語訳

Fortune

Fortune, Nouvell traduction établie par Roger Hibon, Gallimard 1989, ISBN: 978-2070380909