ある日本人の英語

H. G. Wellsの小説「Kipps: The Story of a Simple Soul」の翻訳出版に向けた作業ブログ a one-man effort to translate a novel by H. G. Wells, “Kipps: The Story of a Simple Soul” (1905) into Japanese and publish the results

メモ:ジョン・バカン「三十九階段」の献辞ほか

昔は良かった─アラムの場合

ウィリアム・サローヤンは小説My Name Is Aram第一話「美しい白馬の夏」で主人公アラムに9歳の夏の日、現実がまだ楽しく不思議な夢だったと語らせている。

One day back there in the good old days when I was nine and the world was full of every imaginable kind of magnificence, and life was still a delightful and mysterious dream,

昔は良かった、の典型である。これを読んだとき、私はもう高校生(たぶん二年生)だったから既に現実は夢のようではなかったが、子どものある時期◯◯ごっこが好きで楽しめる頃があるのは経験的に本当だし、アラムのような少年がいたとしても容易に許せたであろう。アラムの場合、何よりも退屈しない物語を平易な英語で語ってくれるところがありがたい(元?)少年であった*1

こども時代でも近所の公園の砂場が悪夢というような、そういう小説もあるのだけれど、それは考えない。

最近変じゃない?─ジョンの場合

本題は、ジョン・バカンの小説「三十九階段」の献辞である。若いころのことが書いてあるようでもあり、あの頃は良かった、という面もあるのかもしれないが、あの頃はあらゆる可能性に満ちあふれていた、とも書いていない。*2

 

TO THOMAS ARTHUR NELSON

LOTHIAN AND BORDER HORSE

My Dear Tommy,

You and I have long cherished an affection for that elementary*3 type of tale which Americans call the “dime novel,” and which we know as the “shocker”—the romance where the incidents defy the probabilities, and march just inside the borders of the possible. During an illness last winter I exhausted my store of those aids to cheerfulness, and was driven to write one for myself. This little volume is the result, and I should like to put your name on it in memory of our long friendship, in these*4 days when the wildest fictions are so much less improbable than the facts.

J.B.

 

問題は終りのほうだが、注意すべきなのはthese daysのthese、それから現在形areを使っていること。だからこの献辞をしたその時代のことを言っていて(1915年)、つまり 今日日は変だ、「事実は小説より奇なり」の窮みだと言っているとも考えられる。
私の手元の創元推理文庫の邦訳本にはこの献辞の翻訳が見当たらない。
以下、拙訳を付す。

ロウジアン・アンド・ボーダー・ホース隊
トマス・アーサー・ネルソンに 

親愛なるトミー、 
僕と君には、ずっと愛しやまないあの初歩的な物語のジャンル、つまりアメリカ人なら「ダイム小説」と呼び僕らの間では「ショッカー」と了解するものがある―冒険物で、そこには事件・現象が、どれほど現実的かなどということには構わずただ起こりうる範囲の限界を越えないことのみわきまえ行進するものだ。そんな元気づけの材料も僕の備蓄はこの冬の病の間に使い果たしてしまい、ついては一品自分のために書くことになった。小品がその結果であり、どんなに奔放な虚構も現実の事象よりはよほど現実味のあるこの時代に、君との長い友情を記念し、ここに君の名をしるしたい。  

  

実に夢のようさ─津田君の場合

先のジョン・バカンの献辞(1915年9月)は第一次世界大戦中。最近ときどき話題になるスペイン風邪(Spanish Influenza)世界大流行はそれよりもあとだが、夏目漱石「琴のそら音」はずっと前、1905年の作品らしい。*5

その時医者の話さ。この頃のインフルエンザは性が悪い、じきに肺炎になるから用心せんといかんと云ったが─実に夢のようさ

 

*1:語っている時点のアラムが少年であるのか否か未確認、未考察

*2:Page 3, John Bachan, The Thirty-Nine Steps (Penguin Classics) 2004, ISBN: 978-0-141-44117-7

*3:elementalとなっているテキストもあるようである

*4:theとなっているテキストもあるようである

*5:ちくま文庫夏目漱石全集2、102ページ