ある日本人の英語

H. G. Wellsの小説「Kipps: The Story of a Simple Soul」の翻訳出版に向けた作業ブログ a one-man effort to translate a novel by H. G. Wells, “Kipps: The Story of a Simple Soul” (1905) into Japanese and publish the results

(メモ)ユート、コグ船

前の記事に引き続き、ベリャーエフ「難破船の島」第四部第九章の邦訳作業より怪しい箇所について記録します。

ドラゴン船かしらん

リューダース教授は幅の狭く長い独特の形状の船へ案内し、その船首の半獣半人の木彫像を見せて語る。

— Тысячу лет смотрит это чудовище на волны океана, — сказал Людерс, — и многое могло бы рассказать нам, если бы его деревянный язык мог говорить. Оно рассказало бы нам о бесстрашных людях севера — викингах, — которые на этом утлом суденышке отважились бросить вызов седым просторам океана. Их вмещалось не менее семидесяти, этих смельчаков.

現状拙訳:

「この怪物は千年、大海原を見てきました」リューダースは言った。「だから、この古代の怪物がもしも口を利けたなら、多くを語ってくれたことでしょう。語られるのは恐れを知らない北方の人々、すなわちバイキングについてであり、彼らはこの危かしい船でもって灰白色〔もしくは大昔〕の大海に挑んだのです。そんな命知らずが少なくとも七十人は乗り組んだことでしょう。

あらためて見ると下線部のседым(<седой)は色ではない気がしてきた。白髪のような色をいうようだが、年老いた、古い、遠いとかいう意味にもなるようだ(ウィクショナリー英語版によるとvery old, distant, ancient)。バイキングの船の話なのだが、太古というほど昔かわからない。「はるか昔の・・・」、あるいは省略ぎみに「はるかな大海に挑んだ」でよいか?

いずれにせよ、全体としてまるで遠洋航海を意図したように読めてしまい、この後のlongship的記述と整合するか怪しい。実際、読み進んでいくうちに、たまたま事故で遠く流されたのであろうと教授は説明することになる。そういう説明をするきっかけは、「長い航海に必要な物資を収納できないのではないか」という質問に答えてのことである。そういう質問を誘う教授のここの発言は誤解を招くものになるのはストーリーの設計上の要請か?・・・苦しい。

ここからは原文のバリエーションが大きい。インターネットアーカイブにある1963年のБеляев Александр - Собрание сочинений第一巻などでは:

Они гребли веслами, а в помощь веслам ставили четырехугольный ют и в передней части судна — короткую палубу для воинов.  В восьмом-девятом веке еще не строили юта. Вот эти щиты на юте служили для зашиты гребцов.

船首に(も?)戦士のための四角い後甲板があってその遮蔽物によって櫂(あるいは漕ぎ手)を助ける旨、かなり抵抗を感じる説明になっている。手持ちの仏訳本(Viktoriya et Patrice Lajoye)はこれ、またはこれに近い原文を訳したものと思われる。英訳本(Maria K.)もそうかもしれないが、だとしたら大胆に作り変えて合理化しており、各部がよく対応しない。拙訳ではこれよりは少しわかりやすい(たまたま底本にするつもりで手元にある)次の異本の露文を採用する。

Они гребли веслами, а в помощь веслам ставили четырехугольный парус.  В передней части судна — короткая палуба для воинов — ют. В восьмом-девятом веках еще не строили юта. Вот эти щиты на бортах служили для зашиты гребцов.

現状拙訳:

彼らが櫂を漕ぎ、これを支援すべく方形の帆を設けました。船の前部に戦士のための短い甲板──ユート〔《後甲板》を意味する露語〕──を設けました。八、九世紀にはまだユートは建設されませんでした。こちらの舷側に並べた盾が漕ぎ手を防御するのに役立ちました」

船首に後甲板があるのは具合が悪いが、今のところ名案はない。後甲板をクウォータデックとでもすれば目立たぬかもしれぬが同じことだ。ютが何かの誤植であってくれたらと思うのだが・・・。このことばは蘭語hutを語源とし、露語版ウィキペディアでは船尾楼甲板の項の見出しになっているが、露語版ウィクショナリーでは「船尾部分の上部甲板」(кормовая часть верхней палубы судна)、英語版ウィクショナリーではquarter-deckの意味となっている。また「八、九世紀にはまだユートは建設されませんでした」も怪しい気はする。「建設する」という訳語も変かもしれない。手元の英訳本ではここの「ユート」部分がruddersになっている。根拠は不明。今見ている露文でそう解釈するのは大胆すぎる気がする。それで良いなら、あるいは蘭語hutが意味するかもしれないкаюта(船室)と読むのも許されるかしらん?「八、九世紀にはまだ船室は建設されませんでした」(あらまほしき原文:В восьмом-девятом веках еще не строили кают. )だったら・・・。

なお、引用を見ればわかるように「八、九世紀」の「世紀」は単数形векеの本と複数形векахの本がある。どちらでもよいのか、あるいは"8th or 9th century"や"8th to 9th centuries"みたいな気持なのか、想像してみるがわからない。いずれにせよ翻訳には支障ない。

聞き覚えあり、ハンザ同盟

手元の英訳本、仏訳本に「ハンザの『爪』2隻」(それぞれtwo Hanseatic 'claws',  deux 'griffes' aux armes de la Hanse)が出てくるが、きっとこれは原文の誤植によるものに違いない。原書は、

Недалеко отсюда стоят две ганзейские «когти».

という本もあるが、採用すべきはこっち:

Недалеко отсюда стоят две ганзейские «когги»

現状拙訳:

ここから少し行くとハンザ同盟コグ船が二隻あります。

実は(自分の)言語的理解は怪しい。単数主格ではそれぞれкоготькогг(後者は辞書で確認できていない)。коготьは男性名詞。二つの爪ならдва когтя(単数生格)か?露語ウィクキペディアを見る限りкоггも男性名詞のように変化している。するとコグ船2隻はдва коггаか?形容詞を入れると、名詞とは数が不一致でдва ганзейских коггаか?引用の露語原文はいずれも女性名詞扱いしている(女性名詞前では形容詞は主格にするのが正統派)。うーーん・・・。

でも訳文は基本的に当たっている、と思う・・・。

それから、コグ船を前にしたリューダース教授の説明の中、コグ船が地中海を航海したという本とそうでない本がある。

— Эти почтенные купеческие суда были сооружены не только для торговых целей, но и для борьбы с разбойничьими судами норманнов, одно из которых вы Видели. Обратите внимание: подобно скандинавским судам, «когти» имеют возвышения на носовой и кормовой части. Здесь помещались катапульты и даже огнестрельные орудия. Поверхность парусов увеличилась. Управление судами ввиду сильного давления на паруса производилось уже не веслом, а рулем, прочно укрепленным на ахтерштевне. Эти суда свободно бороздили поверхность моря 〔異本にСредиземного моря〕... Вы не устали? — спросил Людерс Вивиану, заметив, что она слушает его рассеянно.

現状の拙訳:

「これら立派な商船が建造されたのは、商用のみならず、先程一例をご覧になったノルマン人の海賊船との戦闘に用いるためでもありました。ご注目ください。スカンジナビア船と同様、コグ船でも船首部と船尾部とが高まっています。そこに投石機[カタパルト]、それに火器さえ収納しました。帆面は大きくなりました。帆の大きな推力のために船の方向は櫂ではなく船尾材にしっかり取り付けられた舵によって制御されました。これら船が海〔異本に地中海〕上を自由に行き交いました……。お疲れですか?」ビビアナのぼんやり話を聞いているのに気づいたリューダースは尋ねた。

ハンザ同盟と地中海、どうかしら?「難破船の島」は空想小説なので、地中海として構わないが、地中海としていない本もあるから処理に迷う。