雑談:ヒヨコの無駄話
多言語上達の体験本
かつてロンブ・カトー(姓名)というハンガリー人の多言語愛好家がおり、計16言語は通訳や翻訳の仕事をしたことがあるという。その著書に邦訳では「わたしの外国語学習法」という、あれこれ言語や言語学習について語る本がある(訳者は米原万里)。原著Így tanulok nyelveket*1は1972年、邦訳は1981年に出版されたが、今も読まれ、概して高く評価されている。
www.chikumashobo.co.jpこの邦訳本が(13年間くらい)私の手元にもある。読み易い、という読者感想を見かけるけれど、私の印象では、かなり読みづらい本である。もしかしたら、全部は読んでいないのかも知れない。そう思って、「わたしの外国語学習法」の本文の終わりに近い1、2ページを読んでみた。読み覚えがあった。と同時に、不思議な文にひっかかって何度も読み返した。
ロンブさんと謎の日本人客
これは子供*2に読ませたくない話だ、と断わってからロンブさんは始める。ある時ロンブさんは電話で仕事に呼び出される。日本から来賓があり 担当省の役人が到着するまでの間その話相手になりもてなすよう、頼まれたのだ。もてなしの際、お客にハンガリー訪問の目的を尋ねると、答えにロンブさんの知らないことばがあってわからず、それを漢字で書いてもらおうとするが難しい漢字なので無理と断わられる。そのかわり、お客は英語に訳したことばを書いたものがどこかにあると捜しはじめ果たして紙切れを取り出して見せる。そこに書かれていたのは一単語のみ。英語にされたその用語(sexing)をロンブさんは誤解し、さらにそのためにハンガリー政府からとても良い報酬が支払われると聞いて内心、なんとあけっぴろげな男よ、わがハンガリー政府よりかくも厚遇受けるはいったい何者ぞ、と驚き不条理に打ちひしがれる。やがて到着した役人に教えてもらい誤解は解ける。そしてこのエピソードを締め括る不思議な文の出番だ。引用させていただく*3。
この日本人の賓客は、にわとりのひなの雌雄淘汰の専門家だったのです。その仕事の内容というのは、価値のない、といっても養禽業の観点から見て価値のないという意味ですが、おんどりとめんどりを見分ける作業だったのです。
「価値のない」のは何だろうか。たぶんこの文面だけからでも詳細に検討すれば結局は「おんどり」のことと結論づけられるだろうが、次のサイトから英訳Polyglot: How I Learn Languages, Second Editionを取得して該当箇所を読んでみるほうが手っ取り早い。こちらは邦訳とは底本が異なり(1995年付の原著者による第4版への前書きを含み)、以下にそのための差異があってもおかしくはない。
www.tesl-ej.orgこんな感じのことが書いてある*4。
日本からの客人は生後幾日にもならないヒヨコの雌雄を鑑別するエキスパートでした。任務は場所や飼料を無駄にしないように、養鶏には要らない、将来の雄鶏たちをより分けることです。おもしろいことに、そんなエキスパートは決まって日本人なのです。
どうやら先の「価値がない」というのはオスのヒヨコのことらしい。昔、名古屋市の農業センターに行くとヒヨコをくれたが、皆オスであったことを思い出した。私が自力でオスメス判別できるわけではないから、そう聞かされていた、と言うべきかもしれない。
ちょっと調べると、ヒヨコの雌雄鑑別では欧州においても日本人が活躍しているらしいとの情報が見つかる。この取材記事は気軽におもしろく読める。
初生雛
先の重訳で「生後幾日にもならないヒヨコ」としたのは英語ではday-old chicksとあったもの。ネット検索してみる。孵化してから72時間以内のヒヨコがこれに分類される。
The Life of: Broiler Chickens - Compassion in World Farming
https://www.ciwf.org.uk/media/5235306/The-life-of-Broiler-chickens.pdf
A chick classified as a 'day-old chick' is up to 72 hours old (this is when the yolk sac in the egg runs out).
生後72時間というのは黄卵嚢を使い切る時期ということだ。黄卵嚢( yolk sac )というのは、中学校の理科のヒヨコの解剖でヒヨコ体内に見つけた卵の黄身、あの部位の正式な呼び名に違いない。今思えば、あのヒヨコもオスだったのだろうが、解剖はその方面には及ばなかった。ホルマリンのせいか、あの日、家に帰って気持ち悪くなった。
www.poultryhub.org黄卵嚢は黄卵を包み栄養源にできるよう酵素を供出する。この栄養源が切れる時期、つまり体外からの栄養依存に完全に切り替わる。ヒヨコは、それまでに飲み食いできるようにならなければならない。黄卵嚢のなくなるのは生後48時間から72時間という。
日本語には初生雛という用語がある。定義は孵化後48時間までのヒヨコのようで、餌付けまでの時期、つまりは先の黄卵嚢のなくなる個体がちらりほらりと見られるタイミングと解釈できる。
養鶏業ではオスと鑑別された初生雛は不要となり、産業廃棄物として扱われる、という話もあるが、資源として有効に利用されるようでもある。
雌雄淘汰?
先に引用の「わたしの外国語学習法」の文では「雌雄淘汰」とあるが、今のところ本件の文脈に合う定義は発見できていない。
ロシア語版
ところが先の邦訳本の引用が忠実な訳である可能性は否定できない。雌雄淘汰はロシア語でполовой отборである。そして、たとえばハンガリー語版ウィキペディアのLomb Katóの記事のリンクから先の引用部分に相当する露訳テキストが見つかり、そこではまさにその用語を用いている。
この下線部。
Наш японский гость был специалистом по половому отбору однодневных цыплят. А задача, которую он решал, состояла в предварительном отделении неценных — с точки зрения птицеводства — петухов от кур.
少なくともこの2文は全体的に邦訳とよく対応している。неценных「価値のない」とпетухов「おんどり」のあいだにс точки зрения птицеводства (養鶏の観点から)という挿入句がはいっている。ただし露訳では、めんどりから「価値のない」おんどりを分離する、という意味が明白である。進化論の用語の連想を避けるためотборを素直に「選択」とすると、こんな風に読み下せる。
われらが日本人客は生後間もないヒヨコの雌雄選択に関するスペシャリストでした。そして彼の解決する課題は、あらかじめ、めんどりから—養鶏の観点からは—価値のないおんどりを分離することにありました。
ハンガリー語原文?
漁ってみたが、どちらかというと前述英語版に相当すると思われる新しい版のテキストしか見つからない。その限りにおいてだが、該当部分では、「雌雄淘汰」あるいは「性淘汰」というような専門用語に紛らわしいものは使われていない。ここでは、ほんのその一文のみ引用させていただく。
Japán vendégünk az egynapos csirkék nem szerinti szétválasztásának volt szakembere.
さすがハンガリー語、Japán 以外ちんぷんかんぷんだなあ、と感慨にふけたのち、英語版ウィクショナリなど頼りに漢文よろしく読み下せば、
*Japanese our-guest*5 the one-day chickens sex according-to*6 in-separating-of*7 was*8 expert-of*9.
すなわち、
Our Japanese guest was an expert in separating day-old chicks by sex.
すなわち、
われらが日本の客人は雌雄別による初生ひなの分離においてのエキスパートでした。
となる。文法理解は怪しいけれど意味は明快だ。ハンガリー語の記述力に感心。いやロンブさんのか・・・いかなる言語においても不明瞭に書くことは余りに易しいのだから。