ある日本人の英語

H. G. Wellsの小説「Kipps: The Story of a Simple Soul」の翻訳出版に向けた作業ブログ a one-man effort to translate a novel by H. G. Wells, “Kipps: The Story of a Simple Soul” (1905) into Japanese and publish the results

いつ終わるかわからない作業:訳文の再点検(2)

キップスの邦訳につき、ペンギン・クラシクスの注部分をチェックする昨日の作業の続き。

 

tak-p-masen.hatenablog.com

 

注5のある文(cubby-house)

There was a corner under the ironing-board which by means of a shawl could, under propitious gods, be made a very decent cubby-house, a corner that served him for several years as the indisputable hub of the world;

アイロン台の下の隅に場所があって、慈悲深い神々のもと、ショールを使ってかなりまともな子どもハウスになり、そこが間違いなく、幾年かキップスの世界の中心拠点になった。

注によれば、cubby-houseは子供が作ってそこで遊ぶ、心地よい場所。子供自身が作る、とは思っていなかったが、そう読めなくもない。本当だろうか。

印象としては、犬に対する犬小屋のような、子供に対する子供小屋、のように思う。この文ではアイロン台にショールを掛けて、テントのようになるのだろうか。この文の出だしは「アイロン台の立つ一隅があって」のほうがよいかもしれない。

下線部を「子ども小屋」としてもよいが、自分で作る意味合いになるわけでもない。

「子どもハウスになり」を「子どもハウスにできて」としたら、どうだろうか。それでも主語がわからないから子供が作るかどうかはわからない。「自分用の小屋に仕立てられて」あるいは「自分の遊べる小屋に仕立てられて」としたら幾分、そう読まれる可能性が高くなるかもしれない。

 

注6のある文(Olympian)

And, unhappily, one rose to their Olympian level at meals. 

そして人は、不愉快ながらも神々のオリンポス山高みにまで登って食卓に着くのだ。

注はOlympianを説明。

注7のある文(drabbit)

Sometimes, moreover, his uncle would come, pipe in hand, out of a sedentary remoteness in the most disconcerting way, when a little boy was doing the most natural and attractive things, with "Drat and drabbit that young rascal! What's he a-doing of now?"

それにときには、どこか離れたところにすわっていたかと思うと、小さな子供がごく自然に興味をもつことをしているところへ、パイプを手に現われて、この上なく気味悪く「畜生め、このわるがき、今度は何してる?」と来る。

注はdrabbitを解説。

こう原文と対照するとDratの訳が脱落したとも見られる。「ちぇっ、畜生め・・・」としようか?