ある日本人の英語

H. G. Wellsの小説「Kipps: The Story of a Simple Soul」の翻訳出版に向けた作業ブログ a one-man effort to translate a novel by H. G. Wells, “Kipps: The Story of a Simple Soul” (1905) into Japanese and publish the results

原文の選択:誤植か否か、修正するか否か

MertonはMintonの誤記

底本のテキストには(その本に限らず)、あまり悩まず、誤記とみなせるものもある。たとえば、上巻五章三節の終わりの方に、そこ一回しか出てこない「Merton」という人名が出てくるが、文脈から、もっと前に複数回出てくる「Minton」のことのようであるし、実際そうなっているテキストもあり、筆記体で書いたものを想像すれば両者の形は、ほぼ同じで、目立つ違いはieの点の有無の差でしかない。「Minton」として訳して差しつかえないだろう。困ったとき参考にしているロシア語訳*1やイタリア語訳*2の原文は「Minton」のようだ。(ロシア語Минтон)

bowingかblowingか

中巻一章一節の終わりの方のこの「bowing」を「blowing」としているテキストも多い。

Kipps/Book 2/Chapter 1 - Wikisource, the free online library

Coote did, bowing very slightly, and Kipps secured his vacated position on the extensive black skin rug.

blowing?)クートは呼吸をわずかに強めながら腰掛け、キップスは黒皮の広い敷物の上の空席を占拠した。

下線部がbowingのままなら、おじぎ(のような格好)をしたように変更すべきだろう。底本はWikisourceと同じ「bowing」なのだが、妙な気がする。前述のロシア語訳やイタリア語訳は明らかに「blowing」を採用している。

dripかdipか、bowかboughか

中巻三章三節の終わり近くに困った文がある。テキストによって記述が異なる。運河をカヌーで行く場面。

dripとbow

Kipps/Book 2/Chapter 3 - Wikisource, the free online library

All the world that evening was no more than a shadowy frame of darkling sky and water and dripping bows about Helen.

このままではbowがどういう意味かわからない。

dipとbow

同じ部分が、ある人の使う底本ではこうなっている。

Kipps and The History of Mr Polly (Wordsworth Classics)

All the world that evening was no more than a shadowy frame of darkling sky and water and dipping bows about Helen.

この場合、ある人は、この文だけならbowsを舳先と解釈することもできるように思った。つまり

dip,bow)その晩の世界全体が、暗い空と水と、ヘレンのあたりで水に深くはいる舳先をおさめる影の多い暗い額縁でしかない。

しかし、これを採用するわけにはいかない。

dipとbough

というのは、この場面と同じ、という記述がずっと後のほう、下巻三章、小説の終わり近くに現れる。

Kipps/Book 3/Chapter 3 - Wikisource, the free online library

And there was the water, shining bright, and the sky a deepening blue, and the great trees that dipped their boughs towards the water, exactly as it had been when he paddled home with Helen, when her eyes had seemed to him like dusky stars.

要するに木の枝が下がっていたのだ。二章の文もdripでなくdip、bowでなくboughと読んで解釈すべきだ。

dip,bough)その晩の世界全体が、暗い空と水と、それにヘレンのあたりにたわむ木々の枝をおさめる影の多い暗い額縁でしかない。

dipとbow再び

いやbowをおじぎと解釈すれば誤植でないとも言えるか?むしろ、しゃれだろうか?

dip,bow?)その晩の世界全体が、暗い空と水と、それにヘレンのあたりの(たわむ木々の枝の)深々としたおじぎをおさめる影の多い暗い額縁でしかない。

 なぜか「数日間」でなく「まる一日」

検索で出てくる本はいろいろあるが、底本だけ記述が違う箇所がある。中巻六章四節の始まりは、Wikisourceなどでは「数日間」のようになっている。

Kipps/Book 2/Chapter 6 - Wikisource, the free online library

For some days he had been refraining with some insistence from going off to New Romney again…

ところが、底本に限っては違うのだ。「丸一日」のようになっている。

Kipps and The History of Mr Polly (Wordsworth Classics)

For a whole day he had refrained with some insistence from going off to New Romney again…

なぜだかわからないが、大勢に合わせる理由はあまりないので底本どおりで行ってみよう。あとで誤訳のように思われる可能性はある。

まる一日、キップスはまたニューロムニに出掛けることを少し頑なに控えた・・・

 脱落

底本には、次の下線部がない。Google検索では同じ箇所の脱落している(公開)テキストは見当たらない。

Kipps/Book 2/Chapter 7 - Wikisource, the free online library

Bump, bump, bump, bump floated up to him, and certainly that was a point to him.

ズン、ズン、ズン、ズン、と下方から浮いてくる音にあおられて、これはさすがに自分に一点だろう。

*1:Р.Облонская訳Герберт Уэллс. Киппс. История простой души

*2:Valentina Capocci訳Lavinia Emberti Gialloreti改訂Kipps. Storia di un'anima semplice